朝倉義景について
こんにちは。ダブルです。今日は朝倉義景について、かきます。
朝倉義景は、大叔父さま(宗滴)と、一乗谷を見たときに、越前の国を守ると決心しました。
数年後に槍の扱いが上達しました。そのころ義景は、織田信長ことをみみにしました。
その後一向一揆が越前の国に侵攻して来ました。その度に宗滴が総大将として
打ち払ってきました。このころ義景に待望の息子がいました。元亀元(1570年)
信長は義景の上洛拒否を理由に、3万の兵を率いて越前の国に侵攻しました。
金ヶ崎で戦いましたが、織田軍の猛攻を前に金ヶ崎城は、落城します。
その時、浅井長政が朝倉に味方して形成は一気に逆転しました。信長を
ぎりぎりまで追いつめましたが、信長の首は討ち取れませんでした。
これが、金ヶ崎の退き口です。金ヶ崎の戦いのうち朝倉浅井連合軍は
織田徳川連合軍と姉川の戦いで戦います双方に互角の戦いであったが
わずかに徳川軍が押し勝ちます。浅井長政も柴田勝家・木下藤吉郎秀吉らが
奮戦します織田軍相手に戦い一時は退却寸前まで押していたが朝倉軍を
破った徳川軍に浅井軍は、右翼を攻め崩されてしまいました。同年8月25日信長は
足利義輝暗殺に関わった三好三人衆を攻めるため摂津の国に出陣その背後に
義景は出陣する。鐘の合図に織田軍に襲い掛かった。その後信長は和議をした。
(志賀の陣)と呼ばれるその後義景は負け戦がつづく。義景が一条谷を去った
二日後一乗谷に信長は火をつけた。炎は、三日二晩燃え続け朝倉氏が百年にわたり治め
栄えた一乗谷は、すべて灰となりました。その後、景鏡の謀反により六坊賢松寺で自刃
しました。朝倉義景の話はここまで。また次のブログで・・・