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島津義弘について

こんにちは、ダブルです。今日は、島津義弘のことを書きます。

日本最大の荘園、南九州・島津荘、薩摩の国加世田城島津家は

鎌倉時代に島津荘の地頭となったことからはじまる。

島津家には4兄弟がいました。名前は長男島津義久・次男義弘・三男歳久

 

四男家久の兄弟がいました。義弘の祖父忠良は島津家の内紛をまとめて

再び九州の雄となるきっかけを作った人物です。また(日新斎)とも

呼ばれ薩摩武士の教育の基本である。「いろは歌」をつくったことでも

知られている。1554年島津家に敵対する、蒲生氏祁答院氏らが島津側の

 

加治木城を攻めました。島津家は祁答院の岩剣城をせめました。

その戦いで義久・義弘・歳久が初陣しました。その戦で義久は

総大将になりました。歳久のあんで「稲を刈り取ったら、怒ってでてくる

のではないか」といわれてやったところ、大成功して岩剣城は落城しました。

 

島津軍の得意の先術「釣の野伏」で、伊藤祐信・大友宗麟・竜造寺隆信を

討ち九州統一まであと一歩と迫りました。そのころ豊臣秀吉から手紙が

来ていました。家内で大友と和睦するか・そのまま戦うか、決めました。

結果は、このまま戦いつずけることにしました。怒った秀吉は

 

仙石秀久率いる四国勢の軍六千を大友軍の救援に送るが対する島津軍の

勢いはすさまじく「戸次川の戦い」で大友軍ともども敗れ去り秀久は

諸将をさしおいて早々に逃げ帰り元親は嫡男を失った。

1587年三月二十八日態勢を整えた秀吉は二十万の大軍を率いて

 

豊前国小倉に上陸した。島津軍は必死に戦ったが負けた。1592年

朝鮮に渡った義弘は日本軍の4番隊として奮戦した。朝鮮において日本軍を

何よりも苦しめたのは冬の寒さだった(義弘)「おお!見回りご苦労

寒かったろうささ粥じゃ体の心から温まるぞ」こういった義弘の

 

配慮もあって島津軍は一人も凍死者がでなかった。秀吉の死後石田三成

徳川家康は対立を深め島津家もその動きに巻き込まれていった。

義弘は徳川家康が留守の間、伏見城を守るように任された。ただし国許からの

兵は三百しかいません。そのとき島津豊久が援軍に来ました。数四百合せて

 

七百どうにかいける。ところが鳥居元忠はそんな話聞いていないといった。

その背後に石田三成率いる大軍がきましたそして三成と話をした。

義弘は西軍についただが戦いでは義弘は動かなかった。最後に撤退するときに

島津軍は、家康本陣につっこんで国に帰った。1619年義弘は85年の生涯を

おえた。それではまた次のブログで・